2010年12月26日

大正時代の西川口 −夜空にホタルまう田園−


 文献資料を見ながら、印象深い地域の記述を抜き書きして画像を加えるメディアミックスの「西川口ストーリー歴史編」を作成してみたいと思います。初回は仁志二町会の創立30周年記念誌『町会のあゆみ』に掲載された「大正時代の思い出」という伊藤輝子さんの文章からです。(*)とあるのは注を加えた箇所です。

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「田圃が多く、6・7月頃になると青青とした稲田に日暮を待っていたかの様に蛙が鳴き出し、蛍が合図をしたかの様に青い光をピカッピカッと放ちながら舞っているのを家の中から見てうっとりしたものです。

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 秋の刈取り頃に稲子取りをした事。蕨へ通じる農道、人道兼用の狭い道の片側に柳の木*1)が植えてあり、刈り取った稲束を干すのに「ヤライ*2)」として使っていた事。

 戸田との境にあまり高くない堤があり、横土手と呼び、土手に沿って川が流れ、大きなシジミが沢山とれ、ダンゴ掬*3)を持って取りに行った事。
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川でシジミ採り*4)

 西川に大八車が通れる位の石橋があり、6尺巾位の道が横曽根北(現北町町会)へ通じ、北町との境近くに小川があり土橋がかかっていて、そばに庚申様と呼ぶ石像が奉ってあり、歯の痛い時にお願いすると治ると聞かされてお参りした事。

 風呂敷に本、石盤、石筆を包み、通学路であった中道と呼ぶ砂利道を登校中の冬の朝、転んで石板をメチャメチャにして泣いて家に帰った小学1年の頃。

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石盤*5)

 又、新田中に電気がつき、毎日学校から帰ると7個のランプのホヤ磨きから油差しをしていた私は掃除をしなくて済むのにも増して、明るい所で家中の者が食事をし、本が読めると大喜びした小学5年か6年の頃*6)。7月の天王様(八雲神社)*7)のしし舞の見事だった事。

 目を閉じると大正の頃の新田が浮かんで来ます。新田中で14軒しかなかった家*8)も今は何倍にも増え、よい街になりました。」



 *1)原文ではオワンとあるが、椀→蛯ゥ。
 *2)稲を刈り掛けて干す仕掛け
 *3)金属の丸い網。おたま。
 *4)埼玉県のページより転載
 *5)上田市立博物館 石盤と石筆 転載
 *6)1914年(大正3年)5月 横曽根村に電気が供給される。
 *7)北区岩淵町
 *8)大正時代の横曽根村の人口は3,413人(大正9年国勢調査)


出典
伊藤輝子,大正時代の思い出,町会のあゆみ,仁志二町会創立30周年記念誌編集委員会編,川口市仁志二町会,p39,平成2年9月1日(1990)

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2010年12月19日

鷹狩をみる


2010年12月19日今日は、鷹狩を再現する放鷹(ほうよう)実演を練馬区立石神井公園ふるさと文化館に見に行きました。

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 鷹狩(鶴御成 明治期 尾崎征男氏蔵)

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 石神井公園ふるさと文化館

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 オオタカ

川口は昔、将軍の御鷹場でした。
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徳川十三代将軍御鷹野之図(板橋区立郷土資料館蔵)

鷹狩令(1628)によれば、江戸五里(約20km)の四方に徳川幕府の御鷹場が設置されています。
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*堀江家文書「御城より五里四方鷹場惣小絵図」
宝暦13(1763)年以降(首都大学東京図書館情報センター蔵)より転載

徳川将軍は鷹狩行列で移動しながら狩りをしました。
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鷹狩り絵巻(板橋区立郷土資料館蔵)

資料*によれば江戸北部の地図の赤いところは岩淵筋という御拳場(おこぶしば)で、木部藤左衛門が管理していました。川口市もそこに属します。平柳(現在の川口元郷)に御捉飼場(おとりかいば)があり、鷹狩当日は将軍は錫杖寺を休憩所としました。
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鷹狩はユネスコ世界無形文化遺産に登録されたそうです。練馬区のイベントは、NPO法人日本鷹匠協会の皆さんの実演でした。鷹匠の団体もたくさんあるようです。
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騎馬が茂みから鳥を追い出して、鷹に捉えさせます。
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鶴、雁、鴨、白鳥、雉、鶉、鳩、雀などを捕りました。ヒナから仕込むと自分よりも大きな鶴や鴨に挑むそうです。将軍や旗本がそれを狩後に御膳で食べました。
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鷹道具之巻(東京都江戸東京博物館蔵)

オオタカの雌の動画(mp4ファイル形式)。タカは雌のほうが大きいです。
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「狩り」は人間が忘れそうな「環境と対峙し糧を得る野生に生きる力」を呼び覚ましてくれそうです。この雌はイギリスから輸入して訓練中だそうです。子供たちは大興奮です。

若い学生さんたちも入門していました。コ・ラボのスタッフも興味津々です。
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川口でも、平成17年に「伊奈サミット」のときに川口の鷹狩実行委員会(平田修一会長)によってリリアパークで実施したそうです。またやりたいですね。今度は鷹狩行列から鴨料理などの御膳まで絵巻の世界を川口で体験してみたい気がします。

【参考】
御鷹場−徳川将軍家の鷹狩−練馬区立石神井公園ふるさと文化館(2010)

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2010年12月17日

市役所通りの緑のはしら

今日は散歩をしました。市役所の通りは、電柱が緑化されていてとても快適です。

緑はちょうど人間の背丈くらいです。
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植栽ますは、通行人が歩きやすいように進行方向に伸びたかたちをしています。
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伸びるようにうまくマットを使っています。
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冬でもよく元気に緑をつけており、目を楽しませてくれました。
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2010年12月15日

大正期までの川口の恋愛作法 ハタヤマイリ


 昔川口には沢山の織物屋さんがありました。その事は、前の記事で書きました。
織物工場は女性の職場です。たくさんの女工さんが働いていました。

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小林古径 《機織》1926年 東京国立近代美術館

 ハタヤマイリ(機屋まいり)といい、男たちは、日が暮れるころに機屋を訪ね、奉公に来ている娘に逢いに行きました。女工は東北などから出稼ぎにきている人が多かったようです。

 男女の知りあうきっかけは、祭りの夜が多かったのでした。
 9月14日の峯ヶ岡八幡神社(川口市峯)の宵宮祭りや、10月14日の力神社(川口市伊刈)の宵宮祭りの芝居の興行には女工さんがたくさんきていたので、青年たちはハタヤマイリのきっかけをつくることができました。また、12月15日の飯塚氷川神社(川口市本町)のおかめ市、12月25日の氷川神社(鳩ケ谷本町)の熊手市にも行くと帰りが遅くなり、歩いて帰ってくると、知りあう機会がありました。

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おかめ市(飯塚氷川神社)(転載

 また、1日と15日に駄菓子屋にいくと、織物屋が休みだったので女工さんがたむろしていたので、知りあうきっかけとなりました。

 ハタヤマイリは、昭和5、6年まであった習慣です。当時は大半は見合い結婚でしたから、とてもロマンがあったことでしょうね。
 機織りの娘たちの歌も残っています。

 ”機屋にくるときゃ 草履できてね 下駄だと跡が残るから”


資料
 川口市史 産業と生活 P323

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2010年12月08日

青縞プロジェクト スタート


 「青縞(あおじま)プロジェクト」を始めます。蕨宿から川口宿にかけて、とくに川口市の横曽根地区では、縞模様の綿織物がさかんにつくられていました。この青を基調とした縞文様のデザインを現代に活かすプロジェクトです。

 埼玉南部地域の荒川沿いは、江戸時代は徳川幕府直轄地で戸田領横曽根村でした。綿織物の歴史は古く、その起源は、塚越村(現蕨市の西川口との境周辺)の高橋新五郎が文政8年(1825)に織機を改良工夫して精緻な「青縞(あおじま)」を産出したことにはじまります。青縞とは、タテ糸もヨコ糸も同じ藍染の糸で織られた無地紺です。
 
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青縞(あおじま)

藍染めを空気にさらす(酸化)際に、糸をくまなくさらさないと、白いままの糸がところどころにできて染めむらとなります。その糸で織りあげると、予期しない白い筋がタテに入ります。それが青縞です。

 その後、文久元年(1861)に初めて洋糸を使用して、木綿双子縞の製織を試み、これに成功しました。双子縞とは太縞の両側に細い縞を配した縞柄です。日本最初で「塚越双子縞」の名で広く販売され、「埼玉双子」「東京双子」と呼ばれるようになり、世の称賛をうけました。

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双子縞(ふたごじま)

 蕨市のホームページによれば、塚越の高橋家には4冊の縞帖が伝わっているそうです。近代産業史の資料として貴重なもので、蕨市の指定文化財*となっています。
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蕨 見どころ案内(塚越地区)より転載

 『川口市史』によれば、塚越村に起こった機業は、漸次、川口の横曽根・芝・前川方面に移されました。旧前川村の斎藤幸蔵ほか2,3名が相図って、青縞機を考案しました。その後、糸入結城、糸入縮、鳴門縞を織りだした、とあります。結城は絹織物、鳴門縞とは、現在の阿波しじら織(たたえ織)につながる流れでしょうか。染色業は全国各地にありますが、埼玉県南部の織物は、東京という一大消費地を控えて、早くから各地の最新の素材の肌触りの感覚や人気のデザインを取り入れつつ、綿、絹、交織などに広げて多様な展開をしていったことがうかがえます。

 安政年間(1854-1860)英国から綿糸を購入して「唐桟織」を始めてから需要が伸び、明治末期に最盛期に達しました。

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 唐桟縞(とうざんじま)

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 矢鱈縞(やたらじま)

 明治31年には横曽根村で、機業家、尾熊伊兵衛を発起人として遠山藤八ほか9人を創立委員として、「横曽根村織物組合」が設立されました。
 明治40年における川口市内の織物の生産を村別にみると、芝村と横曽根村が中心になっており、価格でみると市域の8割近くを占めています。芝村と横曽根村では、双子その他の縞木綿を、また横曽根村では、男帯、女帯も生産していました。

 昭和21年10月25日、市域周辺の繊維・織物業者15工場が集まり、繊維復興祭がおこなわれました。その後、飛躍的に伸び、上青木、前川、神根、芝方面に多く立地し、昭和30年には82工場にまでなってゆきます。当時の綿織物は、金巾(旗などによく使う)、粗布、細布、天竺、ポプリン、仁斯(ジーンズ)、雲斎(足袋の裏地の斜織)、フランネル、ギャバジン、厚織などで、地下足袋、縞風呂敷、シーツ、座布団カバー、こたつ上掛け地、タオル、工業資材など、各上場の持ち味を生かして多様な織物生産がおこなわれていました。関連産業である紺屋もおおいに栄え、昭和25年に川口、鳩ケ谷エリアで25件の染物屋が営業していました。昭和30年代に織物業は不振におちいり、他産業へ転換してゆきました。

 織物業の生産の復活は簡単ではありませんが、その歴史の中で培われた「縞」のデザインを現代の多方面の暮らしやプロダクトデザインに活かすことはできます。

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地元サッカーチーム「アヴェントゥーラ」の青の縞文様

 埼玉県内では、2007年12月に「埼玉織物サミット」が川越で開催され、各地から14団体が集まるなど関心が高まってきています。
 
 蕨市内では、「中仙道蕨宿双子織復興会」が組織されています。群馬県館林市の染色業者さんの協力を得て双子織の復興の努力を始めています。

 川口市でも、藍染、形成デザイン(文様)に興味のある方と連絡をとりながら研究会をつくり、狭い意味での青縞、双子縞をふくむ、様々な縞模様のデザインを勉強することから始めたいと思います。研究会については気軽にお問い合わせください。とくに古い風呂敷、衣類、はぎれ類をお持ちの方がいたらぜひお教えください

【参考】
川口市史
縞のデザイン わたしの縞帖, ピエ・ブックス, 2005年
幕末から明治にかけての横曽根村を中心とした川口市域の織物業のついては以下が詳しい。「幕末・明治初年における埼玉県南部地方の綿織物業,竜谷大学,社会科学研究年報、創刊号,昭和45年3月)

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